前言撤回日記

不惑

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40歳になりました。
きんどーさんと同い年。いつかは来ると思ったがホントに来るとはなあ。

惑わず、と書いて不惑ですよね。

若い頃は自分の知っている狭い世界が世界のすべてだったから、その自分の見知った範囲の中であらゆる事を断定的にジャッジできた。
何事もなしていないケツの青いガキのくせに他人を断罪するなどお手の物。
友人知人親類縁者の意見は言うに及ばず、政治経済教育創作、すべての物事にケチを付けた。

それがいつ頃からだろうか、自分の知っている世界の狭さ小ささに遅まきながら気がつき、何一つ断定的な事が言えなくなっていった。
あらゆる物事は独立して存在するワケではなく、また事実も切り取る角度、見る視点が無数にある事を知った上では、あらゆる意見に「個人的には」とつまらないエクスキューズを入れずにはおれない。

凡俗は、不惑の境地とはほど遠く、年を追って惑うこと増すばかりである。
いつかはあらゆる事に達観して、胸を張って不惑と言える日が来るのかしらん。

来年はついにバカボンのパパに並ぶ。
これでい〜のか?

私的ヒョーゲンロン

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単なる記録でしかない日常的なスナップを「表現」にまで持って行くという行為をどう捉えるべきか、みたいな事を写真展を見た帰りに電車に乗りながら、ボンヤリ考えていた。
で、そのまま思索をウロウロと泳がせているうち、「表現とは?」みたいなベタな問いに行き着いたのでちょっと続けてみる。

世の中に「おもしろいもの」とか「おもしろいこと」などという物は存在しない。「おもしろいと思う人」がいるだけだ。
日常に存在する事物はただ存在しているのであり、そこに原因や理由はあっても意味はない。意味を見いだすのは人間の方だ。

人工無能の吐き出す文字列に意味はないが、人間はそこにゲシュタルト的に意味を見る。

この「おもしろい」という属人的な指標を価値観とか評価軸とか興味とかいろいろと呼ぶことができるが、「表現」というのは自らのそれを他者に提示する行為にほかならない。 
したがって表現は常に他者の存在を前提とする。また、そこには必ず恣意が働いていなくてはならず、受け手にすべてを委ねてしまえばもはやそれは表現ではない。

むろん例えば読者には誤読の自由があるし、受け手の解釈が表現を完成させる、というのは正しい。
正しいというか、前提から考えてそうでしかあり得ないのだ。

なぜなら自らの表現もまた本来は他者にとっては意味無く存在する事物のひとつでしかないからだ。
だがそこには表現者の恣意という明らかな脈絡があるので、受け手の解釈に強力なバイアスがかかる。そのため、受け手の解釈は一定の幅に収まっていく。これが「表現」という行為である。

……と、ひとまずおくと、色々な事が腑に落ちるし、先頃流行った「人間の価値」が云々みたいな論議や「人生の意味って」といった疑問がいかに的外れかなども分かったりする。

偶然を織り込んだ表現をどう解釈するか、という考察は「偶然とは?」という新たな問いをはらんだ別の話になるのでしばし寝かせる事とする。

脳漏れ

最近Twitterにばっか投稿してるせいか、更新が滞りまくっている。
書きたいことができてもカタチになる前にとりあえずTwitterにuploadしてしまうので自分の中に溜まっていかない。思考がダダ漏れになっているカンジ。
こっちもそのくらいのユルさで書いていけば解決なのかもしれないけれども。

スパム三昧

エイプリルフールネタがうざいというエイプリルフールネタをたまに見かけますね。

というエイプリルフールネタでした。

確かにRSSにネタ記事がいっぱい混じってくるのはちょっとなあ、と思う時もあるけど、まあそのくらいのことは楽しめるココロの余裕を持ちましょう。

それにしてもスパムがすごい。
片付けに費やされる僕の貴重な時間を返して欲しい。

スパムを生業にしているようなヤツは家の鍵でも無くせばいいのに。

チョサッケンヌ

このところ著作権関連の話題が各所でかなりの頻度で取りざたされている。
例のJASRACによる取り締まりや格安の映画DVD販売、著作戦保護期間延長などの議論などもろもろ。

で、その保護期間延長に対してだけれども、僕もやはり賛成できかねる。
現状、機能しているシステムに変更を加えるならば変更を加えるだけの根拠が必要だが、それが「海外が延長傾向にあるからうちも足並みを揃えましょう」というのはいかにも根拠薄弱だ。

著作権が現在、誰にもっとも利するのかといえば、制作者本人ではなく、その家族でもなく、それを行使してビジネスを展開している企業である。

著作物は個人の力であまねく流通させ、ビジネスとして成立させていくことが難しい。したがって制作者はその流通の部分を企業に委ね、おそらくはそれに見合った金額を受け取る。
企業はお金をかけてそれを宣伝し、営業をかけて店頭に置いてもらい、あるいは電波に乗せ、または劇場で公開する。関連商品を作り、話題を提供し、市場に浸透させる。
その中で一握りのものがヒットし、大部分はひっそりと姿を消す。
僕らが目にしているいわゆる著作物は、そうした色々な人の運と努力の集大成である。

もちろん企業はボランティアでそういった事業を行っているわけではない。あくまでビジネスである。
コンテンツに投資し、収益をあげ、そこから新たなコンテンツにさらに投資し、流通させ、それらに関わる人たちに収入をもたらす。
つまり多くの人がそうした企業の活動によって、収入を得たり、また流通した新たなコンテンツを楽しんだりといった事が可能になる。

もし著作権ビジネスの成立する期間が過剰に短ければ、投資に見合った利益を回収することができず、したがって誰もそのようなものには手を出さず、コンテンツが流通することもなくなる。
こう書くと「今はネットで簡単に流通させられるではないか」と言われそうだが、流通はできてもそこから個人レベルで利益を上げて生活するというのは、ともすれば著作物を制作する以上の困難がともなう。

それは著作者本人もそこから利益を得ることがきわめて難しくなってしまうという事を意味する。

だからそうした企業活動自体の価値はじゅうぶん認める。そしてそれをじゅうぶん認めた上で、コンテンツ産業は文化事業でもある。広く一般に受け入れられたコンテンツは人々の共通言語となっていく。流行歌や流行語がそうだし、ネット上ではアニメや漫画のセリフが日常的に流用され、ある種の文化を形成している。

ゆえに著作権保護期間が現在のままで妥当かどうかという議論は、持つ者と持たざる者の単なる感情的ないさかいであってはならず、何をもって妥当とするかの具体的な根拠を提出しながら冷静に行われるべきだと思う。

賛成派の、現在の保護期間の長さを不当とするに足る算出根拠を聞いてみたい。
ベルヌ条約で保護期間が50年と定められたことにも何らかの根拠となるものがあったのであろうから、それを覆すようなものでなくては説得力はあるまい。

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