前言撤回日記

私的ヒョーゲンロン

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単なる記録でしかない日常的なスナップを「表現」にまで持って行くという行為をどう捉えるべきか、みたいな事を写真展を見た帰りに電車に乗りながら、ボンヤリ考えていた。
で、そのまま思索をウロウロと泳がせているうち、「表現とは?」みたいなベタな問いに行き着いたのでちょっと続けてみる。

世の中に「おもしろいもの」とか「おもしろいこと」などという物は存在しない。「おもしろいと思う人」がいるだけだ。
日常に存在する事物はただ存在しているのであり、そこに原因や理由はあっても意味はない。意味を見いだすのは人間の方だ。

人工無能の吐き出す文字列に意味はないが、人間はそこにゲシュタルト的に意味を見る。

この「おもしろい」という属人的な指標を価値観とか評価軸とか興味とかいろいろと呼ぶことができるが、「表現」というのは自らのそれを他者に提示する行為にほかならない。 
したがって表現は常に他者の存在を前提とする。また、そこには必ず恣意が働いていなくてはならず、受け手にすべてを委ねてしまえばもはやそれは表現ではない。

むろん例えば読者には誤読の自由があるし、受け手の解釈が表現を完成させる、というのは正しい。
正しいというか、前提から考えてそうでしかあり得ないのだ。

なぜなら自らの表現もまた本来は他者にとっては意味無く存在する事物のひとつでしかないからだ。
だがそこには表現者の恣意という明らかな脈絡があるので、受け手の解釈に強力なバイアスがかかる。そのため、受け手の解釈は一定の幅に収まっていく。これが「表現」という行為である。

……と、ひとまずおくと、色々な事が腑に落ちるし、先頃流行った「人間の価値」が云々みたいな論議や「人生の意味って」といった疑問がいかに的外れかなども分かったりする。

偶然を織り込んだ表現をどう解釈するか、という考察は「偶然とは?」という新たな問いをはらんだ別の話になるのでしばし寝かせる事とする。

サイゴン

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ワタナベアニさんと池田昌紀池田晶紀さんの写真展「ふたりのサイゴン」に行ってきた。

カオティックなサイゴンの情景をカオティックなままダイレクトに差し出す池田さんとエレガントに切り取ってみせるワタナベさん。対照的なおふたりのサイゴンを見せていただく。

共通して「狙って撮った」というより「出会って撮った」といった趣で、展示の仕方としてはライブ感覚寄りな池田さんに対してワタナベさんの方は(ご本人もおっしゃってましたが)組写真で意味を浮かび上がらせるようなアートディレクター寄りな方向。

「海外に行ってちょっと面白い物撮ってきた的な写真」にならないように気を付けてチョイスした、との事だが、同時にこの方法だと瞬発力だけになりやすい、という分析も鋭い。
作為やあざとさ、ケレン味をいかにインペーするか、またはロシュツするかのコントロールは表現の上では重要な課題になるはず。
また、じんわりくる種類の写真は難解になりやすいので間口をどう拡げるかという点も難しい。

事前にトークショーも予約してあり、こちらは常磐響さんを交えて「さんにんのサイゴン」というテーマでのゆるゆるトーク。
どのくらいユルいかというと、途中でスピーカーの2/3がトイレのために中座するというサイゴンなみ(たぶん)のユルさ。

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ワタナベさんと常盤さん

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池田さん

池田さんは文字や文章にあまり興味を持つタイプではないそうで、そういう人が自分の行為やら考えやらを言語化するトークショーというイベントに出演するのだから何かと危なっかしいワケであるが、さすがワタナベさんと常盤さんは生来の頭の回転と年季の入った落ち着いたトークで自らの体験や考察を語っていて楽しかったし、うなずけることも多々あった。

常盤さんの「撮ることを街に許されてる感じ」や「先の事は分からない、ようやく2〜3年前の事が分かるようになってきた」はふいに出た言葉だと思うけれども共感を覚えたし、ワタナベさんの「一日6GB撮っても、なぜ8GB撮れなかったのかと思う」という言葉や「写真の選択は二度目の撮影」という引用には「ああ、ワタナベさんは映像の人であるなあ」と思ったりした。

昨年の「ふたりの上海」には行きそびれたのだが、パンフレットが買えたのでよかった。
今回のパンフレットには写真が一葉ついてきて、裏面を見ると直筆のサイン。細やかなサービス精神がうれしい。

来年はヨーロッパだそうで、やる方も楽しみだろうが見る方も今から楽しみなのであった。

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