








私的ヒョーゲンロン
単なる記録でしかない日常的なスナップを「表現」にまで持って行くという行為をどう捉えるべきか、みたいな事を写真展を見た帰りに電車に乗りながら、ボンヤリ考えていた。
で、そのまま思索をウロウロと泳がせているうち、「表現とは?」みたいなベタな問いに行き着いたのでちょっと続けてみる。
世の中に「おもしろいもの」とか「おもしろいこと」などという物は存在しない。「おもしろいと思う人」がいるだけだ。
日常に存在する事物はただ存在しているのであり、そこに原因や理由はあっても意味はない。意味を見いだすのは人間の方だ。
人工無能の吐き出す文字列に意味はないが、人間はそこにゲシュタルト的に意味を見る。
この「おもしろい」という属人的な指標を価値観とか評価軸とか興味とかいろいろと呼ぶことができるが、「表現」というのは自らのそれを他者に提示する行為にほかならない。
したがって表現は常に他者の存在を前提とする。また、そこには必ず恣意が働いていなくてはならず、受け手にすべてを委ねてしまえばもはやそれは表現ではない。
むろん例えば読者には誤読の自由があるし、受け手の解釈が表現を完成させる、というのは正しい。
正しいというか、前提から考えてそうでしかあり得ないのだ。
なぜなら自らの表現もまた本来は他者にとっては意味無く存在する事物のひとつでしかないからだ。
だがそこには表現者の恣意という明らかな脈絡があるので、受け手の解釈に強力なバイアスがかかる。そのため、受け手の解釈は一定の幅に収まっていく。これが「表現」という行為である。
……と、ひとまずおくと、色々な事が腑に落ちるし、先頃流行った「人間の価値」が云々みたいな論議や「人生の意味って」といった疑問がいかに的外れかなども分かったりする。
偶然を織り込んだ表現をどう解釈するか、という考察は「偶然とは?」という新たな問いをはらんだ別の話になるのでしばし寝かせる事とする。


